徳川幕府から受継がれてきた水害との闘い~「印旛沼開発事業」~

印旛沼(いんばぬま)は、千葉県北西部の印西市、佐倉市、成田市、印旛郡栄町、八千代市にまたがる利根川水系の湖沼で、徳川幕府の利根川東遷により水害で苦しみ続けてきた。
1724年、江戸湾から平戸村までの約17kmの掘割工事が着手され、その後、徳川幕府の老中の田沼意や水野忠邦次により掘割工事が試みられたが頓挫した。
明治、大正、昭和にかけて、印旛沼開発は、1877年の千葉県からの印旛沼開削の上申書の提出、1921年の農務省「印旛沼手賀沼土地利用計画」、1927年の「印旛沼手賀沼大規模開墾計画」に受継がれてきた。
戦後の食料難と失業者対策として、1945年に閣議決定された「緊急干拓事業」の一環として、印旛沼の干拓と内水排除を目的とする農林省直轄の「国営印旛沼手賀沼干拓事業」が1946年に着工されることとなった。
農林省直轄事業の途中、工業用水の需要拡大に対応するため計画が改定され、印旛沼の中央部を埋め立て、北印旛沼と西印旛沼を印旛捷水路※で結ぶとともに、新川と花見川の分岐点に大和田機場、利根川に印旛機場、長門川に酒直水門と酒直機場を設置、併せて調整池周辺に堤防を築く計画となった。
「印旛沼開発事業」計画は、1963年に水資源開発公団(現水資源機構)に受継がれ、1969年に長年の悲願であった「印旛沼開発事業」の完成により、水害との闘いに終止符が打たれた。
※捷水路(しょうすいろ)とは、河川が弓のように曲がっている部分をまっすぐに直して、洪水を安全に流すために、人工的に掘削された水路である。
【出典】:関東農政局のWebサイト(http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/inba/keii/01.html
を加工して作成
【写真】北印旛沼と西印旛沼を結ぶ印旛捷水路と分断された台地を結ぶ橋梁である。(平成31年3月に投稿者が撮影)

投稿日時 2019-03-03 22:55:00

投稿:佐藤祐明