伊奈忠次と息子 忠政・忠治が貫徹させた鬼怒川・小貝川の分離

江戸時代の初め、鬼怒川は茨城県の下妻付近で小貝川とつながり、小貝川とほぼ並行して流れ、水海道から現在の小貝川に再び合流して、常陸川(現在の利根川)に合流していました。
鬼怒川・小貝川の分離は、利根川東遷事業の一環として、慶長13年(1608)から元和年間(1615~1624)初頭にかけて進められました。
鬼怒川と小貝川の分離工事に着手したのは伊奈忠次で、この分離工事は、利根川東遷事業の一環として行われました。忠次が下妻市の南に堤防を築いたことにより、鬼怒川と小貝川の間を流れていた河川の水位が下がって、周辺に広がっていた沼地は少なくなりました。
忠次の息子の忠政や忠治の時代になって、台地を延長約8kmの新しい河道を人力掘削により切り開いて、鬼怒川を守谷市で常陸川(今の利根川)に合流させる工事が行われ、鬼怒川と小貝川は完全に分離されました。
これにより、広大な一大沼沢地を形成していた谷原領、大生領一帯の新田開発が可能となったのです。さらに、鬼怒川筋では奥州会津地方などからの物資運搬路としての舟運が発達しました。
【出典】:国土交通省ホームページを加工して作成
http://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/shimodate_know020.html
http://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0303_kinugawa/0303_kinugawa_01.html
【写真】平成30年12月投稿者が撮影
写真1は茨城県守谷市の鬼怒川の掘り込み河道に設置けられた床止め工
写真2は人力掘削により切り開かれた鬼怒川に架かる滝下橋から鬼怒川を望む

投稿日時 2019-01-06 18:28:00

投稿:佐藤祐明